2009年12月05日

男湯の浴室正面の壁面

男湯の浴室正面の壁面に広がる富士山を主体とした図柄は、日本の風呂文化の象徴でもあった。「銭湯」と聞くと富士山の壁絵を思い浮かべる人は少なくはないと思われる。しかし正確には東日本、特に関東地方の銭湯に特有のものであり西日本の銭湯では浴槽が浴室の中央に設計されることが多いこともあり、壁面にペンキ絵はほとんど無い。

富士山のペンキ絵は、東京神田猿楽町にあった「キカイ湯」が発祥といわれる。大正元年(1912年)に「キカイ湯」の主人が画家の川越広四郎に壁画を依頼したのが始めで、これが評判となりこれに倣う銭湯が東京や東日本を中心に続出し銭湯といえばペンキ絵という観念を生じるに至った。女湯の浴室のペンキ絵は富士山でなく、幼児や子供が喜ぶ汽車や自動車が描かれることが多かった。平成13年(2001年)の時点でペンキ絵の絵師は関東で5名を残すのみとなり後継者の存続が危ぶまれている。(2009年10月現在は2名(丸山清人、中島盛夫)。)
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ちなみに平成18年(2006年)5月に閉館した交通博物館のパノラマ模型運転コーナーの背景壁絵のリニューアルの際(平成14年(2002年))にも、銭湯のペンキ絵の絵師によって富士山などを主体とした山々が連なるペンキ絵が描かれた。

大型タイルに美しく豪華な上絵を描き、焼成したものをタイル絵という。全国的にみられるタイル絵は、伝統の九谷焼で戦前より石川県金沢の「鈴栄堂」という窯元が全国に広めたもの。壁面などの広い面積を装飾するため複数枚の大型タイルに柄続きの総柄に仕上げる。白地の平滑な地に描かれる図柄は主に「宝船」や「鯉の瀧昇り」、「七福神」などおめでたく華美なものがほとんどを占め美術工芸品並みの技巧を凝らし創られたタイルもある。高級品でもあったため、設備資金にゆとりがあり集客の多い市街地の銭湯に多くみられた。

2009年11月29日

愛国心

愛国心(あいこくしん)愛国(あいこく)は、国民が自らが育った、あるいは所属する社会共同体や政治共同体などに対して愛着ないし忠誠を抱く心情である。
一口に「愛国心」といっても、話者によってその意味するところには大きな幅がある。愛国心の対象である「国」を社会共同体と政治共同体とに切り分けて考えると分かりやすい。

社会共同体としての「国」に対する愛着は「愛郷心」(あいきょうしん)と言い換えることが出来る。
政治共同体としての「国」に対する愛着は「忠誠心」(loyalty)と言い換えることが出来る。
愛国心によって表出する態度・言動の程度は様々で、郷愁から国粋主義まで幅広い。よってこれらを十把一絡げに「愛国心」と表現することもできるため、その内容は往々にして不明確である。また、愛国心を訴える事は政府側からのみでなく、反政府側からも行われることである。
政府側の期待する「愛国心」は現政府に対する「忠誠心」と解釈できる。
反政府側の訴える「愛国心」は革命後の新政府に対する「忠誠心」もしくは国家体制に関わらない「愛郷心」と解釈できる。
また、愛国心は大衆を煽動する道具とされてきた一面もある。特に戦時において大衆を動員するために利用された。
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バーナード・ショーのような文化人や反戦主義者、平和主義者は愛国心こそが戦争を起す最大の要因であると説いた。
国家存続の危機たる戦争時には、無政府主義者ですら、国粋主義的愛国心 に自主的に転向する事例もある。
「愛国心」は概ね国家にとって望ましい感情と見なされているが、場合によっては愛国心が反政府運動につながる(国民が政府を「売国的」とみなした場合)こともあり、為政者が国民の愛国心を自らに都合のよい方向に導くため愛国心教育を行う場合がある。為政者が「愛国心」を危険視し排除しようという教育は、他国による被占領地域において顕著に見られる。例えば第二次世界大戦時のポーランドや、日韓併合後・植民地時代初期の朝鮮、連合国軍占領下の日本やドイツなど。

2009年11月25日

房総平氏

房総平氏(ぼうそうへいし)は、桓武平氏の中で平忠常を祖とする氏族である(ただし、桓武平氏と言うのは後世の仮冒で実は古族の末裔と言う説も有る)。上総・下総に亘る房総半島に基盤を持ち、多くの氏族を輩出した。特に有名なのが上総氏と千葉氏である。なお、安房国にはその勢力が見られないことから、「両」総平氏と称すべきとの見解もある。

平忠常は下総国相馬郡を拠点とし、上総・下総・常陸の広範囲に領土を有し、上総介、武蔵押領使 に任官された。これが房総平氏の発生である。一説に拠ると、下総国千葉郡にて千葉小次郎と称したとも言われているが定かでは無い。 忠常は1028年に長元の乱を引き起こして源頼信に追討されたが、子の常将、常近は許され、房総平氏は滅ぶことなく存続する事を許された。尚、この事件を機に房総平氏の清和源氏への追従が始まったと見るべきである。 常将は千葉介を名乗ったとされ、その息子の常長・常兼親子の代に前九年の役・後三年の役に従事して功を立て、一族は大きく発展する事になるのである。
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房総平氏からは常長・常兼・常重の三代に亘って数多くの氏族が輩出したが、それを以下に記す。

長男の常家は上総権介の地位を継承したが、嗣子を残さず没した。次男の常兼は千葉大夫と称し、千葉氏の祖となった。三男の常房は鴨根氏を称し、原氏、粟飯原氏、金原氏と言った子孫を残した。四男の頼常は原氏を称した。五男の常晴は兄・常家の養子となり、相馬郡を継承して相馬氏を称し、上総氏の祖となった。六男の常義は村澤氏を、七男の常遠は安西氏を、八男の常継は大須賀氏を、九男の常盛は次浦氏を、十男の常門は埴生氏をそれぞれ称した。

2009年11月07日

稲作の起源とその考古学的分析

日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在している。

かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。
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従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島経由で来たとされてきたが、2005年岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラントオパールがみつかっており、縄文中期には稲作をしていたとする学説が多数出た。それに加え、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本よりさかのぼれないこと、極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないことなどの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎の説がある。一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、朝鮮半島南部を経由して最初から完成された形で北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している。

2009年10月30日

日本での精密時計の大量生産は

日本での精密時計の大量生産は20世紀に入ってから始まった。クォーツ時計の発明、さらに1970年代以降のデジタル化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し日本へとその主軸を移していった。20世紀末には生産地がさらにアジア諸国にシフトしていった。

この頃にはクロノメーター時代の最高精度の何倍もの精度の時計が数百円で買えるようになり、デジタル時計なども実用的にはこれ以上進歩のしようがなくなった。ただしこういった安価な製品には粗悪感があり、物としての所有感がないため、スイス・ドイツ・日本の高級精密時計産業がまた盛り返した。『実用的な道具としての時計』と『高級な嗜好品としての時計』に分化していったといえる。
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その後21世紀になると、携帯電話等に付属する時計を利用するユーザが多くなったため、前者の『実用的な道具としての時計』産業は衰退しつつある。後者の高級精密時計産業は、特にスイスの時計生産業者がグループ化され統合されて安定しつつある。また、ファッションブランドとの統合による資本の安定、他の産業(自動車・光学・精密・電子機器など)との複合経営による資本の安定や技術の応用・還元などにより、機械式時計もさらなる発展をしつつある。
アナログ式: 長針と短針を組み合わせた針式、長針1回転が60分、短針1回転が12時間。
レギュレータ: 長針・分針(あれば秒針も)がすべて同軸にない(文字盤に3つの目盛りがある)もの。

2009年10月19日

陣地防御

陣地防御(じんちぼうぎょ)は、陣地・要塞などの防御部隊が選定した戦闘地域において企画される防御の方式の一つである。
陣地防御は地形上の優位を維持しながら展開できる防御であるが、火力と反撃を併用しなければ敵部隊の攻撃を破砕し、撃退することは難しい。そのため、陣地の前面・内部において敵を消耗させること、反撃の時期を予め計量的に計画しておき、適時において予備隊をもって反撃に出ることが必要である。基本的に陣地防御の主力となる防御部隊は歩兵部隊となる。

陣地の第一線の保守を重視し、火力点を線的に集中させ、敵部隊の陣地への侵入を一切許さない形態の陣地防御である。一線陣地が陣地の基本形態であった第一次世界大戦初期ではこの陣地防御がしばしば行われていた。
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第一線の保守の困難性を認め、陣地の攻撃を段階的に破砕することを重視し、面的に火力点を配備することによって徐々に敵部隊を消耗させ、最終的には消耗撃滅する陣地防御である。

第一線において敵部隊を消耗させておき、一時的な後退行動によって陣地内部に誘導させておいたところで反撃を展開し、最終的に撃滅させる陣地防御である。例としてロシア帝国時代、ナポレオンのロシア遠征において使用し(この時は組織的ではなかったとされる)、日露戦争ではロシア軍の戦略方針とされたようだ。

2009年06月19日

原生生物(げんせいせいぶつ)とは

原生生物(げんせいせいぶつ)とは、生物の分類の一つ。真核生物のうち、菌界にも植物界にも動物界にも属さない生物の総称。もともとは、真核で単細胞の生物、および、多細胞でも組織化の程度の低い生物をまとめるグループとして考えられたものである。

単細胞のもののほかに、多細胞であっても、ごく小さくて微生物として扱われるものが多いが、褐藻類(褐藻植物門:コンブなど)、紅藻類(紅藻植物門:テングサ、アマノリなど)のような大型になるものもある。また、細胞性粘菌のように、単細胞で独立して食物を摂取する期間と、多細胞の子実体を形成する期間の双方を生活史のうちにもつ生物も属している。

原生生物界には以下の様な生物が含まれる。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

褐藻類、紅藻類といったすべての真核藻類
鞭毛をもつ菌類的生物(卵菌類・いわゆるミズカビ類など)
粘菌、細胞性粘菌など変形菌門(旧)に所属していたもの
アメーバ、ゾウリムシなどの原生動物
原生生物は水中や水を多く含む土壌中に生息している。陸上でも、ひなたや岩の上など、乾燥の強い場所でも、地衣類のように他の生物と共生したり、乾燥しているときは休眠して、水があるときだけに活動するなどの方法で生活しているものがある。他の生物に寄生して生活する種もいる。動物の腸などの中にも、特殊なものが生息しているが、寄生の場合、共生関係がある場合、不明の場合など、様々である。腸内や砂泥層の内部は、有機物が豊富で、酸素がきわめて少ない。これを、植物出現以前の地球上の環境に近いとみなして、そのような条件でくらしていた生物の、現在における逃げ場であると見る向きもある。

2009年06月01日

開戦準備・日清戦争開戦

甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。伊藤内閣は6月15日、朝鮮の内政改革[15]を日清共同で進める、清が拒否すれば日本単独で指導するという方針を閣議決定し清に通告、清がこれを拒否すると7月16日条約改正交渉の結果、領事裁判権を廃止する日英通商航海条約調印を経て、20日大鳥公使は朝鮮政府に清軍の撤退と朝清間の条約廃棄を3日間の期限で回答するよう通告、朝鮮政府は日清両軍の撤兵要求を回答、7月23日未明に陸軍第五師団の二個大隊が漢城の電信線を切断して朝鮮王宮を3時間にわたり攻撃・占領する。これは開戦の名義を立てるために朝鮮政府の閔氏一族を追放し、大院君を再び担ぎだして政権を樹立して日本に清軍の朝鮮からの撃退を要請させるためであった。その後7月25日豊島沖海戦が、また29日に牙山攻撃が行われる。宣戦布告は8月1日である。
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なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していた。

日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものである。

「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結して平和を回復させたいと思う。」

2009年04月29日

大乗密教による系列化

これらの神宮寺は雑密系の経典を中心とし、地域の豪族層の支援を受けて確立しようとしていたが、一方でこの事態は豪族層の神祇信仰離れを促進し、神祇信仰の初穂儀礼に由来すると見られている租の徴収や神祇信仰を通じた国家への求心力の低下が懸念されることとなった。一方で律令制の変質に伴い、大寺社が所領拡大を図る動きが始まり、地方の神宮寺も対抗上、大寺院の別院として認められることを望むようになってきた。

朝廷側も、国家鎮護の大寺院の系列とすることで諸国の神宮寺に対する求心力を維持できることから、これを推進したが、神祇信仰と習合しやすい呪術的要素を持ちながら国家護持や普遍性・抽象性を備えた教説を整えた中央の大寺院として諸国神宮寺の心を捉えたのが空海の伝えた真言宗であった。一方でこのような要望を取り入れるべく天台宗においても、円仁や円珍による密教受容が進んだ。

シヤトン教育ランドサイト
ホテル・キャンプ場関連レジャー総合
ノエビアコスメチック倶楽部サーチ
介護サービス・老人ホーム関連ビジネスワールド情報
ヘルメスワインライフレシピナビ
生活習慣病・成人病関連家庭の医学・健康サーチ
フラミンゴ通販サーチ
せるびあ教育学びサイト
水族館・旅行関連リゾート総合
パークウェスト大人のコスメ情報

この一方で、奈良時代から発達してきた修験道も、両宗の密教の影響を強く受け、独自の発達を遂げることとなった。

2009年04月14日

二十四節気

二十四節気(にじゅうしせっき)は、1太陽年を日数(平気法)あるいは太陽の黄道上の視位置(定気法)によって24等分し、その分割点を含む日に季節を表す名称を付したもの。二十四気(にじゅうしき)ともいう。太陰太陽暦において月名を決定し、季節とのずれを調整するための指標として使われる。分割点には12の節気と12の中気が交互に配され、各月の朔日(1日)が対応する節気前後になるように月名を決める。実際には月中に次の中気が含まれるように決める。例えば雨水が含まれる月を「正月」と決めると元旦の前後半月以内に立春があることになる。中気が含まれない月が現れた場合には閏月が設けられる。ただし、定気法においては例外の処理が必要となる。特に重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分を併せて二至二分といい、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立、二至二分と四立を併せて八節という。

また1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けた24の期間を表すものとして使われることがある。この場合、二十四節気をさらに約5日ずつの3つに分けた、七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述された。日本では暦注など生活暦において使われている。

二十四節気は、中国の戦国時代の頃に太陰暦による季節のズレを正し、季節を春夏秋冬の4等区分にするために考案された区分手法の一つで、1年を12の「中気」と12の「節気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。なお、日本では、江戸時代の頃に用いられた暦から採用されたが、元々二十四節気は、中国の気候を元に名づけられたもので、日本の気候とは合わない名称や時期もある。そのため、それを補足するために二十四節気のほかに土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを取りいれたのが、日本の旧暦となっている。

成立の背景 [編集]
月の運行のみに基づいた純粋太陰暦による日付は太陽の位置と無関係であるため、暦と四季の周期との間にずれが生じて農耕等に不便である。そこで古代中国では、本来の季節を知る目安として、太陽の運行を元にした二十四節気が暦に導入され、二十四節気による暦と月の運行による暦とのずれが1か月程度になったときに余分な1か月(閏月)を入れて調節するようになった。

二十四節気は、ある時期に突然に発明されたわけではなく、段階的に整備されてきたものである。二至二分は日時計(ノーモン)によって観察しやすいため古くから認識されていたと考えられ、殷周時代には日の最も短い冬至頃に年始が置かれていた。甲骨文字において月名は1、2、3といった序数で表されていたが、ときおり13月が用いられ、冬至から始まる年と月の運行に基づいた月とを調整していた。よって殷の暦法は太陰太陽暦であったが、高度な計算を用いたものではなく、自然の観察によって適宜ずれを修正するような素朴な暦法であった。なお二至二分の名称は、『尚書』尭典には夏至は「日永」、冬至は「日短」、春分は「日中」、秋分は「宵中」と書かれており、戦国時代末期の『呂氏春秋』では夏至は「日長至」、冬至は「日短至」、春分・秋分は「日夜分」と名付けられている。

二至二分の中間点に位置する四立に関しては『春秋左氏伝』僖公5年の「分至啓閉」という語の「啓」が立春・立夏、「閉」が立秋・立冬と考えられており、『呂氏春秋』において「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の語が使われていることから、戦国時代に一般化したと考えられる。なお古代中国人は1年12ヶ月を春・夏・秋・冬の四時に分け、正月・2月・3月を春、4月・5月・6月を夏、7月・8月・9月を秋、10月・11月・12月を冬とした。周では冬至を基準に年始が置かれていたが、戦国時代になると冬至の翌々月を年始とする夏正(夏暦)が各国で採用されるようになり、これにより冬至と春分の中間点が正月すなわち春の最初の節気にあたるようになったことで「立春」と名付けられ、他の二至二分四立も春夏秋冬の名が冠せられるようになったと考えられる。

その他の二十四節気の名称は前漢の『淮南子』において出そろっており、それまでの間に名称が固定化したと考えられる。八節をさらに3分割したのは、月と対応させるためである。戦国時代には19太陽年が235朔望月にほぼ等しいとするメトン周期を導入した四分暦が使われており、1太陽年を12分割した中気は19太陽年235朔望月に228存在し、7回ほど閏月を設ければ月と中気が対応してゆくことを導き出した。これにより中気をもとに月名を決定することが可能になり、漢の太初暦以降、中気を含まない月を閏月とする歳中置閏法が取られた。なお当時の天球分割法の一つに十二次があったが、節気は太陽の視位置が各次の境界である初点にある時、中気は各次の中間の中点にある時とされた

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